昭和41年12月01日 朝の御理解
信心の喜びとか、信心の楽しみと言った様な事を申しますのは、本当にこの信心の喜びと言うものがおかげを受けると、ご利益を受けると言う事が、楽しみであったり喜びであったり。勿論そうですけれども、それがそれだけであったら、それは私は信心とは言えんと思う。信心とはどこまでも信心であり、いわゆる本気で真心にならせて頂く事であり、本気で愈々神様を確信できる、いわゆる信ずる心を高めて行く事であり。愈々わが心が神に向こうていくのを、信心と言うのじゃと仰るように。
自分の心がいわゆる神心になっていく事。神に向こうていくと言う事。その事が喜びでありその事が、楽しみであると言うのでなからなければ、私は信心の喜び信心の楽しさという様なものは、言葉は本当では妥当ではないと、こう私は思うんですね。だからお参りしてみなさい。おかげ頂くがと、というそのおかげのその楽しみですね。また確かに朝の御祈念でも、こうして皆さんお参りして見えられますと。さぁ起きる時にはちょっとしろしいですけれども、矢張りはぁお参りして良かったと言った様な。
清々しいなんとも言えん気持ちも味わえます。同時にご祈念をするそれから、御理解を頂くと言うのですから。しかもその御理解も、何とはなしに心が清まられるとか。本当にそんな事についてからの、いうならお話しでございますから、悪いはずがありません。そしてそれだけが例えば、朝参りなら朝参り信心の楽しみであるというのであっても、本当じゃないのです。本当の信心の喜びというのはどこまでも、只今私が申しますような、真心信心神心なんです。そういうものが自分の心の中にこう出来ていく。
(途中切れている)
それを直さんと夕べもあの、スイッチがとびました。何かしらんこちらに故障があるのじゃないですかね。信心の喜びと信心の楽しみと言う事を申しますですね。その楽しみとか、喜びとかと言う事が、こう言う様な事だけが、それもそうなのですけれども、ではない本当の信心の楽しみ喜びと言うのは、いわゆる自分がいわゆる信心にならせてもらうという事。真心に神心に又は愈々、神様を信じて疑わない。信ずる心と言うものが育っていくと言う事が楽しみなのである。どうでしょうか皆さん。
その信心が育って行きよるでしょうか。何かの本で読ませて頂いたんですけれども、弓の稽古をする人が、こう弓を満月にこう引き絞りますよね。そしてその的を定めた時に、ひょいとこうその矢を放つ時です。あの時の心境を一会と言うそうですね。一つの会と書いてある。もう何にもない。一生懸命に引き絞っておる時には、ずっとこう満身に力を込めてこう引きよる訳です。そしてその的に向ってこう狙いを定める。定まったと思う時に、放つ時の気持ち。矢を放つ時の気持ち。
これは弓矢その弓の、お道だけじゃございますまい。何の道にでもそう言う様な、一瞬であるけれどもそういう素晴らしい境地があるんですねぇ。お茶をしてもやっぱり、同じような事が言える。まして私は、この信心の稽古をさせて頂く者。私の心が神様に打ち向かう。まぁ例えて私の事で申しますならば。私が控えに控えております。五時の時間がもう一秒一秒こう、五時という時間にもう進んでいきよります。私の心の中にはずっとその五時という、その時間を待っております。
誰かが参拝しておられる方が、その障子を開けて下さいます。私がこのままずっと御神前に出ます。もうその時には拍手も要らなければ、何にもないです要らんです、実を言うたら。もうそれこそ私の心が、満月に引き絞られておる。神様の前にその矢が、射放たれる、あの心境を私はもう、度々度々じゃありません日々感じます。そういう時間がです。一瞬のものではなくて段々こう、多くなっていく。こら私共はここ御結界の奉仕をさせて頂いてからもうそれに、酔う事があります。
例えばそういうような、一つの楽しみとか、喜びとかと言った様なものは、もうその道を極めていこうと願う者でなからなければ、味わえる事じゃないのです。ですからどうでも一つその道とこう言う。信心の道と言う。本当の信心の道をいうのを、本気で身に付けようという願いを、私は立てなければ駄目だと思う。折角矢張りまだこうして、暗いうちから、遠方の方達はもう四時を打ったら直ぐ、出て見えられるでしょう。それで折角信心の稽古をされるのですから。
それがです信心の楽しみが、信心の喜びがただ、おかげにだけ掛けられると言った様なもの。ただ朝起きは何とはなしに良いのだと。朝起きは三文の得だと。成程そうだそら清々しい気持ちにもなれるんだ。そしていうなら信心の話でも聞きゃ、成程それが悪い事のあろう筈がない。健康にも良い心の状態にも良いものです、けれどもそれだけではね。それだけでは私は本当のもんじゃない。
真の信心が本当に育っ行きよる。と先ほど真心信心と言う事を申しましたように、そういう信心のもっとエキスのようなもの、これはいわゆる弓矢の稽古をさせて頂く人が、でなからなければ分からないもの。本当に信心の稽古を目指させて頂く者でなからなければ、分からないもの。鐘が鳴るのか撞木が鳴るのか、鐘でもなからなければ、撞木でもない。いわゆる鐘と撞木のその間から生まれてくるもの。その音色と言うものがです、鐘だけで出来るのでもなからなければ、撞木だけで鳴るものでもない。
神様だけでどうにもなさる事の出来るものでもなからなければ、私共だけが幾ら頑張った所で出来る事ではない。その間のもの。その音色と言うかその味わいと言うものをです。心に感じさせて頂けれる。そこを瞑目する御祈念をする、その御祈念がです神様へ通う、その一時が有難いんだ楽しいんだと言う事になって来るような信心にならなければです。本当の事じゃないのじゃないだろうか。本当言うたら私は御祈念なら御祈念という時間は、もう、二時間は、三時間でも良いのです。
かと言うと私はいわゆるもう座っても、立っても良いのです。その一瞬のものですから。限りなく御礼を申させて貰いよる。もう心行くまで御礼を申させて貰いよる。もう心行くまで御礼を申させて頂きよるとですね。立つ時間を忘れるのです。眠って忘れるのじゃない。もう本当に御神前の一時間の短さ、短さ私は実際それを実感させます何時も。先日の西日本の夕刊ですか。漫画が出てました。私は何時も漫画を一番に読むんですよね。面白いと言う事じゃなくてから、もう中々うがっとりますもんね。
最近は厳寒の富士山、富士の山に登る人達が多いんですが。またこの遭難に遭われる事も、非常に今年は目立って多いんです。それでその何か認めを貰わなければ、山に登られんと言った様な、難しい規則が出来るという訳なんですね。甘くまた山を甘く見るなとも言われます。簡単な気持ちで言うならまぁ下駄履きでと言うわけでもないでしょうけれども。まぁ下駄履きでと言った様な軽い気持ちで登って、矢張り遭難をしておる人が沢山あります。山の厳しさと言うものを知らずに。
山を甘く見たために遭難しておられる人達も幾らもあります。そんな事をまぁ皮肉って書いたんですね。いわゆるその倉田さんと言うんですねあの漫画。倉田さんがその登山をしよる。所が登山口にその登り着かれた所が、上の方からその大きな熊が降りてきよる。いわゆる熊にあった訳なんです。まぁだ登りもせんほんな登山口の所で。それであの熊と言うのは、あらすぐ死んだ振りさえすりゃ良いと言うので、倉田さんがじっとこう、長うなって死んだ振りをしておる所の漫画でした。
そしたらその熊が言うてるんですよ。起きろ起きろともうお前は山に登る資格はなかて。早う帰れ帰れと言うて熊が追い返しておる所の漫画でした。今朝から私はその漫画の一番上を頂くんですよ。そして今朝の御理解を頂いております。皆さんどう言う事だと思いますか。信心も山登りと同じ事とこう仰る。信心も山登りも同じ事なんだ。一段一段上がっていくのである。一段一段登っていくのである。ですから私が今日申します。いわゆる信心の楽しみとか信心の喜びとかと。そういう楽しみやら喜びやら。
またみんなでいう言葉の、一会と言う言葉を使ってお話いたしました。そういう意味合いにおいての信心を目指すのでございますから。はぁ信心ちゃ厳しいなぁと初めから、厳しいとか難しいと言うのじゃなくて、本気で山登りをしようと思うならばです。しっかり私は許されるぐらいはしなければ駄目だと私は思う。本当に登山の楽しみを味わいたいと思うなら、本当に矢張りそれに対する所の、勉強をしなければ駄目だと思う。
前人未踏の道を行くのじゃない。教祖の神様がお歩きになられた道。しかも二代様、三代様と。又は私共の先輩先達の方達が登られた道。私が初めて登る道じゃない。だから登ろうと意欲すれば、誰でも登れる道なのだ。それもこれを甘く見て、私は登る様な事があってはならない。いやそれの信心の楽しみ、信心の喜びと言うものは、本当に頂きたい分らせて頂きたい。本当に神徳を受けたい。真実の幸せを頂きたいと。
と私は願うならばです。その話でなからなきゃ駄目だと思う。熊が降りて来て、すぐ死んだ振りするような、そういう信心じゃ駄目だと思う。( ? )さぁここだと。飛んで出るならもうそら死んだ振りしておる。なんとかかんとか口実をつけて。私共の行く手にいわゆる、熊と言うのは私は苦しいと、あの魔法の魔をそんな風にもじって、一つ今日の御理解を聞いて貰いたいと思う。苦しい事投げ出す様な事。
言うならば巡りが出て来たというのであります。本当に信心を目指すならば、絶対に現在ある、めぐりと言うものは出て参ります。ちょっと巡りが出てくると、もうへこたれる。もう死んだ真似をする。これでそれこそ登山口から追い返されてしまうでしょう。そしておかげめいた様な信心で、一生を終わってしまうと言う様な事では相すまん、んにゃんにゃ馬鹿らしいとは、皆さん思われませんか。
私共は分かりませんけれども。若い人達が登山をする。どんなに危険だ危ないと言われても言われても、矢張り山に登るその楽しみとか、それを一遍味合うた人は、矢張り山へ山へと登ろうとする。確かにそこには山に登らなければ分からない楽しみがあるのに違いはありません。それでもそういうそれがです。下駄履き的なその心の準備でです。いわば軽装で平坦な道を歩く様な気持ちで、私は本当の信心は分からないと思う。
ただおかげだけなら、平坦な道でも気が付きませんけれども、本気で信心の道に進もうとする。もう登山口で熊から追い返されると言った様な結果になろうと、私は思います。二代金光様、四神様の御教えの中に、氏子が真実おかげを受けさせてくれいと言うて願うから、神が本当のおかげをやろうと思うて、神様がその氏子の上にうち向こうて下さると。氏子はもう神様そのくらいでよございますと言うて、その手を打ってまぁそれこそ、熊から追い返されると言う様な事を教えておられます。
本当に例えば百万長者にならせて頂きたいと願うならです。先ず現在までの神様に対する所の借金払いが出来なければ、百万長者もなんもないじゃないですか。こういう巡りがあったんじゃ、お徳が頂ける筈がないじゃないですか。ですから神様は先ず、真実おかげを頂かせてくれよと言うて願うから。神様が本気でおかげを頂かせて下さろうとして、先ず、借金取りのほうへ向こうて下さる。巡りのお取り払いから、掛って下さるともう死んだ真似をする。
もう神様そのくらいで結構ですと言う様な事を言う。それは何故かと言うと、結局はまっておらんからであります。山登りをするのに、本当に簡単な気持ちで登ろうとするから、そんな事になるのです。おかげだけを目指しておるから、そんな事なんです。折角信心を頂くならです。信心も山登りも同じ事と仰る。その高い山に登らせて頂く、いわば登っていくその味わいと言うか、頂上を極めた時の心持と言うかね。そういう有難い楽しい、磨かなければ頂けない気持ちを、頂かせて貰うためにです。
私共は信心の稽古をさせて頂かなければ、嘘だとこう思う。昨日でした善導寺の原さんが、二度目のお参りをされました時、先生今朝からお参りをさせて頂いて、お届けをするとを忘れておりました。と言うてそのお届けに見えたんです。それが今朝方そのお夢を頂いておりました。まぁそれを簡単にかいつまんで申しますとですね。原さんの所にその、自動車をまぁ買った。所がその運転免許を持たんままにです。
それに乗った所がバスに衝突した。それでその自動車が壊れておると言う様な、お夢であったと言うのであります。乗り物はお徳と仰いますからね。それで私は原さんに申しました。おかげ急ぎばしなさんなと私が申しました。おかげ急ぎをしてはならん。それよりか信心を急がにゃ。本当にその自動車を乗りこなせるだけの、私はその力を頂かなきゃいかん。技術を身に体得しなければいけん。はぁもう自動車に乗りたい、自動車に乗りたいばっかり言いよるもんじゃから。
運転免許も持たんのに、乗りよるもんじゃから、バスに衝突すると言った様な結果になるのだ。まぁ自動車がそでただけで良かった。これに命に差し障ったと言った様な、大衝突でなかったから良かった。どうでも運転免許を貰うてからの、自動車でなからにゃいけますまいがと言うてお話をした事でした。その例えばお夢なんかでもです。ただものの夢とは思われないでしょうが。成程原もんたさんに下さっておる。本当に神様の切々たる、お言葉であると思わなければ、おられませんでしょうが。
昨夜もう十二時過ぎに、何時もここでお初穂の整理をさせてもらいます。子供達が手伝いに来てくれます。そして二番目の娘が、ここでお届けするのです。ここの自動車の駐車場に、赤と白に塗り分けた見事な自動車が置いてあった。それがもう素晴らしい性能。もう、どういう深いそのとこに落ち込んでも、自分で上がって行くという様な性能。どういう道でもこの自動車は、いけん事はないという性能があります。性能のある、
(途中切れ)